長崎の淵神社(長崎市淵町)が8月17日から、被爆70年を機に製作した平和の「福うちわ」を頒布する。
同神社は江戸時代、宝珠山万福寺という寺院であり、弁財天が祭られていたことから「肥前稲佐弁天社」と呼ばれていた。明治になり、岩崎弥太郎が三菱重工業長崎造船所の守り神として崇敬したことから、現在でも同社や関連企業の多くが新年の祈願などを同神社で行っている。
1945(昭和20)年8月9日、爆心地から1.7キロの場所にある同神社は甚大な被害を受け、境内の建造物は全て破壊された。終戦後、仮宮が建てられていたが1960(昭和35)年、現在の社殿が完成した。
同神社の朱印は、倒壊した社務所のがれきの中から発見されたもの。被爆の衝撃で四隅が欠けているが、現在も参拝者の朱印帳の押印に使われている。当時、社務所があった場所には現在、宝珠幼稚園が建っている。
下條一仁宮司は「当時、宮司だった祖父はくすのきの枝が頬を貫いて重傷を負いながら、ご神体を宝珠山に隠したという。子どもだった父は母親と祖母がいる社務所へ逃げ込んだ後、建物の下敷きになった」と話す。下條さんは今年、原爆で建物の下敷きになりながらも奇跡的に一命を取り留め、1972(昭和47)年に幼稚園を開園した父親の跡を継いで宮司に就任。すでに同園の園長も兼務している。
「被爆70年という節目に、宮司の大役を父から受け継ぐことになった。朱印にまつわる歴史や、それを祖父から受け継ぎ幼稚園を開園した父の思い、当時の長崎の人びとの思いを今回のうちわに重ね合わせた」と下條さん。印章のデザインは明治初期に下條さんの曽祖父が考案したもの。「長崎港に浮かぶ帆船と稲佐山をイメージしたデザイン。『崎』の文字の中には空に輝く星が篆刻(てんこく)されている。曽祖父が明るく輝く長崎の未来への思いを込めて作ったと聞く。こんな小さな朱印が、あの恐ろしい原爆にも負けずに私たちの手元に残されたことは意義深い」とも。
下條さんは宮司就任の記念品として、曽祖父から父まで3代にわたる思いが込められた朱印を使って「竹うちわ」を製作。これまでも「福守り」「福手ぬぐい」などを手掛けてきたことから、「福うちわ」と命名した。関係者などに配布した所、福うちわを見た多くの人たちから「ぜひ私にも分けてもらえないか」という声が毎日集まったという。
「被爆して欠けたことも、『歴史を忘れるなよ』と朱印が身を削って次代につなぐために伝えているのかもしれない。朱印の存在を広く知ってもらえれば」と考えた下條さんは、一般にも「福うちわ」を頒布することにした。「これからも神社の平和遺産として、被爆朱印を未来に伝えたい」とほほ笑む。
授与時間は9時~17時。初穂料は500円。無くなり次第終了。