長崎ケーブルメディア(長崎市筑後町)11チャンネルで8月16日、番組ディレクター10人がそれぞれの視点で制作した「戦後70年特別番組」を放送する。
同番組は8月9日に放送した番組の再放送。大野陽一郎放送部長が「今年は戦後70年の節目。映像に携わる者として、何も行動せずに終わっていいのか。ぜひ何か残そう」と呼び掛けたことが番組制作のきっかけ。10人のディレクターがミーティングを重ね、それぞれのディレクターが「戦争と平和をテーマに、伝えたい思い」を20分未満の番組にまとめた。各番組は同局の情報番組「なんでんカフェ」で6月から順次放送した。
8月9日、これら10本の番組を再編集して「戦後70年特別番組」を放送。放送時間は3時間を超えた。1986(昭和61)年の開業以来、数多くの自社制作番組を手掛けてきた同局だが、「このような大掛かりな企画は初めて」という。
ディレクターの1人、河津亮輔さんは大分出身。高校まで地元で過ごし、長崎大学進学を機に長崎に移住。すでに長崎在住18年が経過した。「ちょうど人生の半分を長崎で過ごした。今回の企画では『原爆ではない戦争体験』を追及したかった」と話す。完成した番組のタイトルは「何とかなるさ 満州からの引揚げ者 永田和代の物語」。
2013年末、河津さんは知人女性から「何とかなるさ」と題する本を受け取った。手渡したマルモトイヅミさんは同書の編集担当。著者は元インテリアデザイナー・永田和代さん(当時80)。永田さんの自伝書は「波乱万丈な人生」にあふれていた。
旧満州国奉天市(現在の中国・瀋陽市)で生まれ育った永田さんは、比較的裕福な生活をしていたが敗戦を境に生活が一変する。1946(昭和21)年夏に命からがら日本にたどり着くまでの1年間、目の前で略奪、殺りく、暴動が繰り返される中国大陸を生き延びた少女(当時小学6年生)の物語は、敗戦で行き場を失った日本の若者30人と同居したり、家に逃げ込んできたロシアの脱走兵から「良心の呵責(かしゃく)」を感じながら彼らの略奪品で生活したり、仲良くなったロシア兵同士が殺し合う事件に遭遇したりする様子が生々しく描かれている。
河津さんは「本を受け取った時は番組など考えもしなかったが、今回の企画で『長崎で満州をテーマにした番組を作ってみたい』という思いがどんどん強くなった」と振り返る。永田さんと面談した河津さんは、帰国後に永田さんが身を寄せたという島原半島南部まで取材に出掛け、「永田さんの話を聞けば聞くほど引き込まれた。『なんとかなるさ』を本当に実践する人。壮絶な人生なのに、なぜか悲壮感がない。永田さんの生き方を多くの人に知ってほしいと思った」と説明する。
そのほかの主なタイトルは「それぞれの戦争観」「NAGASAKI古写真らいぶらり~被爆70年特別編その瞬間街が消えた」「写真でつなぐ被爆3世 草野優介さん」「継承のカタチ 浦上天主堂再現プロジェクト」「今日まで生かされて 被爆者西村勇夫さんの70年」など。原爆や被爆体験にフォーカスしたり、長崎外国語大学で外国人の戦争体験をインタビューしたり、若者の新しい伝承活動に焦点を当てたりしている。
河津さんは「手前みそだが、各ディレクターの思いがあふれ、クオリティーが高い番組に仕上がったと思う。戦後70年の節目を考えるきっかけとして、若い人も年配の人も、戦争を知る人も知らない人も、家族みんなで見てほしい」と呼び掛ける。
放送時間は17時~20時30分。