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ローマ教皇が38年ぶりに来崎、核廃絶を訴え 沿道の歓迎に笑顔で応える場面も

移動中の車から沿道の歓迎に笑顔で応えるフランシスコ教皇

移動中の車から沿道の歓迎に笑顔で応えるフランシスコ教皇

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 ローマカトリック教会のフランシスコ・ローマ教皇が11月24日、長崎を訪れた。教皇の来日は1981(昭和56)年の故ヨハネ・パウロ2世以来38年ぶり2度目。

沿道で教皇の乗る車列に旗を振る信者ら

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 長崎とキリスト教は歴史的なつながりが深く、1571年長崎の開港に合わせてキリスト教を日本にもたらしたイエズス会に6町が寄進され、江戸町の旧県庁跡地にあった「岬の教会」が日本におけるキリスト教布教の中心地となっていた。フランシスコ教皇もイエズス会出身者。

 その後、明治初期まで続くキリスト教の禁教政策下で宣教師らは追放され、1597年には日本で初めてキリスト教を信仰したことによる処刑である「二十六聖人の殉教」が起こった。その後も江戸時代末期から明治時代初期にかけて起こった「浦上四番崩れ」まで度重なる弾圧を受け、数多くの悲劇を生んでいる。そうした中でも「隠れキリシタン」と呼ばれる信者等によって秘密裏に根強く信仰が継承され、禁教から200年以上経った1865(明治2)年、日本にカトリック信者が存在することが確認される「信徒発見」に至っていることから、2018(平成30)年7月に長崎から天草にかけて2県6市2町にまたがる12の資産が世界文化遺産にも登録されている。

 当時、東洋一の大聖堂と言われた浦上天主堂(長崎市本尾町)は長い迫害を乗り越えきた信者の悲願だったが1945(昭和20)年の原爆投下によって倒壊し、信者にとってさらなる悲劇の歴史を重ねてきた経緯がある。被爆後に亡くなった弟を背負う「焼き場に立つ少年」の写真に教皇が胸を打たれ、それを世界に配布したことが今回の訪問のきっかけにもなっている。

 冷たい雨が降りしきる中、10時過ぎに爆心地公園(松山町)に姿を表した教皇は、旧浦上天主堂の「被爆十字架」や「焼き場に立つ少年」の写真を掲げ、「最近、被爆したマリア像と十字架が長崎で見つかった。長崎は核兵器が人や環境に大惨事をもたらすことの証人。軍拡競争は貴重な資源の無駄遣いであり、全人的発展と自然環境保護に使われるべき」などと述べ、「核兵器のない世界は全ての人が熱望することで、実現可能と確信している」と被爆地長崎から全世界へ核廃絶のメッセージを発信して、1945年8月9日に投下された原爆の犠牲者へ追悼の祈りを捧げた。

 続いて西坂公園を訪れた教皇は、殉教者を表敬した。この場所は1597年2月5日(慶長元年12月19日)、豊臣秀吉の命によって26人のカトリック信者が磔の刑に処されたいわゆる「二十六聖人」の殉教の地。

 その後、教皇は昼食のためにカトリック長崎大司教館(橋口町)に向かった。大司教館周辺では教皇の姿をひと目見ようと地元の信者らが集まり、教皇が姿を表すと日本とバチカン両国の国旗を振って歓迎する姿に教皇も笑顔で手を振りながら応えた。

 アルゼンチン出身のフランシスコ教皇は2013(平成25)年3月に第266代教皇に就任。日本への赴任を切望していたこともあるなど、日本に対して特別な思いを抱いていたといわれる。弱者ファーストで伝統的な装飾の施された教皇の装束を避け、教皇就任後も枢機卿時代から使い続ける鉄製の十字架を使い続けるなど質素を好むほか、格式張った話し方をしないフランク人柄で知られる。サッカー好きで日常的にSNSによる発信を行い、予告なくバチカン職員食堂に姿を見せるなどユニークな人柄としても有名。ロック音楽にのせて教えを語ったこともあり「ロックスター教皇」の異名も。

 38年前の教皇来崎の際にも沿道から手を振ったという信者の女性は「地元でパパ様(教皇のこと)を目にすることができるのは一生に一度と思っていた。まさか二度目に立ち会えるとは」と涙を浮かべながら話す。病床から中継で見守ったという高齢の女性信者は「38年前は雪の降る寒い日だった」と前回の訪問を懐かしんでいた。

 教皇は14時から長崎県営野球場(松山町)で3万人規模のミサに臨み、ミサが終わるとすぐさま次の訪問地で、長崎と並ぶ被爆地である広島を目指す。

 23日にタイ・バンコクから東京に降り立った教皇。25日には東京でも5万人規模のミサを行なうほか、首相や天皇陛下、教会関係者らと会談も予定。東日本大震災の被災者との集いにも参加するなど26日までタイトなスケジュールをこなし、26日にローマへ帰国の途につくという。

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