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長崎のスナックで「一人の道」の茶木みやこさんがライブ

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 東京オリンピック(1964年開催)で活躍した円谷幸吉選手の遺書をモチーフにした「一人の道」のヒットで知られる茶木みやこさんが10月31日、フォーク酒場1970(長崎市銅座町、TEL 095-824-6452)でライブを開く。

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 京都生まれで現在も京都に住む茶木さんは1970(昭和45)年、大学在学中に小林京子さんと「ピンク・ピクルス」を結成。グループ名は京都の柴漬けに由来するという。翌年、地元のラジオで「僕にさわらせておくれ」を歌ったところリクエストが殺到し、同曲でレコードデビュー。洗剤や化粧品、清涼飲料水などのコマーシャルソングも手掛けるようになる。1972(昭和47)年にはピンク・ピクルスを解散するが、翌年に初めてのオリジナル曲「一人の道」が全国的にヒットしたことをきっかけにシンガーソングライター「茶木みやこ」としてソロ活動を始める。1977(昭和52)年にはテレビドラマ「横溝正史シリーズ」のテーマソング「まぼろしの人」や「あざみの如く棘あれば」をリリース。「どんなに小さなところでも、私を待ってくれている人たちのところへどんどん出掛けて歌いたい」と、積極的に全国ツアーなどを行っている。

 円谷選手はオリンピック当時、自衛隊体育学校に所属する陸上自衛官。福島県立須賀川高校卒業後、1959(昭和34)年に陸上自衛隊に入隊し同僚と2人で陸上部を立ち上げる。次第に陸上競技の実績を認められ、さまざまな大会に出場するが、真面目な性格から無理をして腰椎カリエスを発症し、悩まされることになる。当初はトラック競技と駅伝選手と見られていたが、東京オリンピック本番のわずか7カ月前の「中日マラソン」でマラソン初挑戦。2時間23分31秒で5位になる。オリンピックでは男子マラソンで日本の有力選手がメダル争いから脱落する中、最後の国立競技場に2位で戻ってくるがトラックでイギリスの選手に抜かれて銅メダルを獲得。記録は自己ベストの2時間16分22秒。

 「次の目標はメキシコオリンピックでの金メダル」と宣言した円谷さんは、さまざまな不運に見舞われたり、周囲の期待に応えるため無理をしたりして椎間板ヘルニアを発症。1967(昭和42)年に手術を受けるが以前のように走れる状態には戻らなかった。メキシコオリンピックが開催される年となった1968年1月9日、27歳の円谷さんは体育学校宿舎の自室で自分の命を絶ってしまう。「父上様、母上様」で始まり、「幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」で結ばれる遺書は、ライバル選手をはじめ当時の社会に衝撃を与えた。

 同ライブのオープニングアクトを務める川田金太郎さんは東京都出身。高校を3日で中退した後、アルバイトでためた4万円を持って自転車で日本一周の旅へ。6年半後に母の元に帰った時、「お前にできる唯一の親孝行は親より先に死なないこと」と言われる。1994(平成6)年、雲仙普賢岳災害の義援金を届けようとバイク仲間と募金行脚をしながら島原を訪れ、島原の風土にほれ込んでそのまま移住した。東日本大震災以降は雲仙市国見町の自宅から毎年、30時間かけて愛車で移動し「復興支援ライブ」を行っている。開催地は円谷選手の故郷でもある福島県須賀川市。

 「須賀川は親父の故郷。祖父は郡の消防署長だった。大震災の3日後のテレビニュースで『地震と津波にやられ、挙句の果てに原発で追い出された。こんな目に遭うなら長生きなんてしなきゃよかった』と話すおばあちゃんの姿を見て、いても立ってもいられなくなった」と振り返る。川田さんは翌朝、須賀川市役所に電話をして同年6月に高齢者施設10カ所と仮設住宅を慰問した。「それ以降、『がまだせ!須賀川ライブ』を毎年開いている。今年は東京オリンピックからちょうど50年。今回のライブのことは全くの偶然だが、何か深い縁を感じる」とも。

 開演は20時(開場19時30分)。料金は3,000円(1ドリンク付き)。

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