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長崎の仁田佐古小で小島養生所分析窮理所遺構移設を記念するイベント

薬草について説明する川上教授

薬草について説明する川上教授

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 小島養生所分析窮理所遺構の移設を記念するイベントが6月20日、仁田佐古小学校(長崎市西小島)で開かれた。

薬草の植樹を行う児童ら

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 遺構は2015(平成27)年10月に同校の新校舎建設予定地から見つかった。長崎市指定の史跡に認定されたことを受け遺構の一部を同校体育館に併設の展示室で露出展示することが決まり、2020年に長崎(小島)養生所跡資料館が開館。同年10月から分析窮理所の石垣などの遺構を校舎横の展示スペースに移設する工事が行われていた。

 小島養生所は、江戸時代末期の1861年、長崎海軍伝習所教官として来日したオランダ海軍の軍医でポンペが日本最初の西洋式近代病院として養生所と医学所を開設。分析窮理所は、化学教室として後任のボードウィンが1865年に開設し、それぞれ現在の長崎大学病院、長崎大学医学部、長崎大学薬学部の源流になったといわれている。

 イベントでは同校6年生46人と保護者や地域住民に向け同校の前身に当たる佐古小学校出身で長崎大学薬学部の川上茂教授と移設のデザインに携わった長崎大学環境科学部の五島聖子教授が「専門家が教える分析窮理所の秘密」と題して講演を行った。

 川上教授は佐古小学校の校歌の歌詞にある「誉(ほまれ)の地」というワードに着目。江戸時代の医療などに触れ、当時活躍していたシーボルトや出島に作られた薬草園について説明した。分析窮理所は理化学校を意味し、分析が化学で窮理が物理という意味で、現代の基礎薬学教育でも2つが必須の学問となっていることから、近代医学教育の先駆けとして開設された同施設に分析窮理所が作られた重要性にも迫った。分析窮理所で教壇に立った「ハラタマ」や、後身機関の長崎県病院医学校に着任し東洋で初となる公定の薬品の基準となる規格書である日本薬局方の初版にも尽力した「ヘールツ」にも触れた。2人の理化学に対する厳しい姿勢が現在の長崎大学薬学部へと引き継がれていき、同学部の前身となる長崎医科大学付属薬学専門部に学び、2008(平成20)年にノーベル化学賞を受けた下村脩名誉博士の研究姿勢にもつながったと締めくくった。

 五島教授はランドスケープが専門。2018(平成30)年に同校の学生や来日して日本で学んでいたカリフォルニア大学バークレー校とオレゴン大学の学生らと共に遺構の移設デザインに携わった。京都の寺院にある日本庭園の白州を僧侶らが修行の一環として毎日手入れしていることをヒントに遺構を訪問者から見えるような低いフェンスで囲んだ白州の設置を提案。提案した経緯については、当時の医療に薬草が欠かせない存在で分析窮理所にも併設されていた薬草園のような空間にしようと、遺構の周りに薬草を植えたなどと説明した。

 講演後には、児童が薬草の植樹を行い、スイートマジョラムやコモンセージなど5種類の植物を植えた。五島教授は「児童が薬草園として手入れをする場所にすることで、遺構を日常生活の中で気にかけてもらえる環境にしたかった」と話す。

 遺構には、小島養生所や分析窮理所の設立の経緯や変遷などについて説明したパネルも設置。誰でも見学できる。

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