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長崎県立図書館で「石田壽と長崎」展-被爆復興に尽力した裁判官

石田壽(ひさし)さんと長女の雅子さん

石田壽(ひさし)さんと長女の雅子さん

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 長崎県立長崎図書館2階ホール(長崎市立山1)で現在、パネル展「石田壽(ひさし)と長崎」が行われている。

石田さんが愛用したカメラ

 展示された資料によると石田さんは1895(明治28)年、福岡県で裁判官の家庭に生まれた。1920(大正9)年、東京帝国大学(現・東京大学)法学部を卒業。入社した三菱合資会社(三菱グループの前身)を2年で退職すると司法官試補(現在の司法修習生)を経て1924年、東京地方裁判所判事に任官した。

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 翌年には東京帝大で日本人初の哲学教授となった井上哲次郎さんの4女・高子さんと結婚。広田弘毅首相が福岡県出身の学生のために創設した学生寮で青春時代を過ごしていた石田さんは1936(昭和11)年、「二・二六事件」直後に発足した広田内閣で首相秘書官に抜てきされる。翌年1月の内閣総辞職でいったん東京地裁判事に戻るが、4月に外務大臣に転じた元首相から石田さんは再び呼び戻される。広田外相は1年間のヨーロッパ視察を命じ、ヒトラーやムッソリーニへの親書を託した。石田さんは滞在期間中に映画やオペラなどヨーロッパ文化への造詣を深めという。

 その後、最愛の妻・高子さんを病気で亡くし1945(昭和20)年3月、娘3人を連れて長崎地方裁判所に所長として赴任。8月9日は所長官舎(上町)で原爆に襲われたが建物とともに無事だった。勤務先の裁判所(万才町)は消失したが、当時の所長官舎はグラバー園内(南山手町)に移築されて現存する。

 長女の雅子さん(当時14歳)は長崎高等女学校3年生(現在の中学3年に相当)として学徒動員中の三菱長崎兵器製作所大橋工場(現・長崎大学文教キャンパス)で被爆。次女と三女は福岡に疎開して難を逃れた。頭部に大きなケガを負ったまま、さまよい歩いた末に助けられた雅子さんは福岡の九州帝国大学(現・九州大学)医学部病院に入院。3歳年上の兄・穣一さんが「疎開した親戚との連絡用」に発行していた「石田新聞」に当時の様子を寄稿するよう説得され、渋々ながら書き送った。

 石田さんの長男・穣一さんも祖父、父に続き東京大学を卒業後、東京高等裁判所長官を最後に1993(平成5)年に退官するまで法曹界に身を投じた。退官後は2000年まで沖縄キリスト教短期大学保育科の教授を務め、「ゆたかはじめ」のペンネームで著作活動も行っている。

 「石田新聞」に8回にわたり掲載された娘・雅子さんの書簡を「被爆の記録」として出版することを決意した石田さん。当時の出版物はGHQの検閲対象で被爆の実態を公にすることが固く禁じられていたため、「雅子斃(たお)れず」と題された出版申請は「描写があまりに写実的で敵意を再燃させる」という理由で1947年6月に発行禁止処分を受ける。

 しかし石田さんは諦めることなく直ちに行動を開始。市民のあらゆる階層に同書の読書感想文を依頼すると県知事や市長、経済界の名士やカトリック長崎大司教をはじめ数多くの一般市民から感想文が集まった。それらを英訳したものを添え、同年10月に再び出版許可を申請した石田さん。GHQを刺激しない文章表現に修正するなど1年以上にわたる努力の結果、1949(昭和24)年2月にようやく「雅子斃(たお)れず」が刊行された。前月には永井隆博士の「長崎の鐘」が出版されている。

 石田さんは父・精一さんの影響を受け、映画や芝居、落語などをこよなく愛する文化人の側面を持つ。出版の同年8月に公布された「長崎国際文化都市建設法」に基づき文化による復興の先頭に立つことを決意。10月には「長崎国際文化協会」会長に就任し、「長崎ユネスコ協力会」会長も引き受けた。名士芸能大会で「ものまね」を披露したり、当時の人気俳優・早川雪洲さん主演の映画「レ・ミゼラブル(邦題・ああ無情)」の長崎ロケ誘致を成功させたりと文化事業の推進に力を入れた。

 原爆資料保存委員会会長も務めた石田さんは、倒壊した浦上天主堂を現地で部分保存することを強く訴えたが実現できなかった。当時の新聞には法律の専門家として「新しい憲法や法律を一般市民でも分かるように」やさしい解説文を寄稿。石田さんは日頃から多くの市民と気さくに交流し、一躍長崎の人気者になった。倒壊した旧浦上天主堂など1946年から1948年ごろにかけて石田さんが撮影した写真のうち、およそ160点が現在でも長崎原爆資料館に展示されている。

 パネル展では紹介パネルや写真に並び、石田さんが愛用したカメラや旅行カバンの実物も展示。1951(昭和26)年6月27日付け「長崎日日新聞(現・長崎新聞)」の記事を紹介するパネルからは石田さんの人柄がしのばれる。「さようなら石田さん」と題された記事には、前日26日の12時30分発「雲仙号」で京都に赴任する石田さんを見送ろうと、大勢の市民が駅に殺到した様子を伝えている。

 各界の名士から一般市民まで「予想外の人数」が詰め掛ける異常事態に、急きょ入場者専用改札口を設けて対応するが構内では身動きが取れず荷車の上や階段の鉄骨によじ登る人もいたという。記事は石田さんが多くの市民に愛された人物であることを伝えるとともに「最後まで名物男の面目をほどこした」と結んでいる。会長を務めた「長崎ユネスコ協力会」がユネスコへの正式加盟を果たし、記念大会を成功させたのは前日の25日。最後の最後まで長崎のために力を尽くして旅立った。

 その後、高松高等裁判所長官を最後に退官。1962(昭和37)年、病気のため66歳でこの世を去った石田さんの葬儀には、当時「ブギの女王」として人気者だった笠置シズ子さんをはじめ、交流があった多くの芸能人や各界の名士が参列したという。

 パネル展に訪れた市内在住の男性は「たまたま立ち寄って知った。『じげもん(地元の人)』でもないのに長崎のためにこんなに尽力した人がいたことを全く知らなかった自分が恥ずかしい。県民は一人でも多く石田さんのことを知るべきだ」と力を込める。

 同館4階・郷土資料展示室で同時開催中の「長崎文学展」では、雅子さんの直筆原稿や永井博士が雅子さんに宛てた直筆の手紙などが展示されている。

 開館時間は9時30分~20時(土日祝日は17時。月曜休館)。入場無料、8月30日まで。

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