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2020年夏公開・映画「祈り-幻に長崎を想う刻-」 物語の舞台「浦上天主堂」を訪ねて

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旧天主堂の外壁の一部と浦上天主堂

 

 1945(昭和20)年8月9日、長崎に投下された原子爆弾によってほぼ原形をとどめないほど破壊された浦上天主堂。被爆した長崎の象徴とも言える天主堂の保存の是非を巡って議会が紛糾する12年後の長崎の街で戦争の記憶と傷跡を残すために奔走した人々の姿を描いた映画「祈り」が2020年夏の公開に向け製作が進められている。物語の舞台となった浦上天主堂と被爆マリアを訪れ、今もキリスト教徒が多く住む長崎の街・浦上にスポットを当て被爆までの歴史をひもといてみた。

 


現在の浦上天主堂の遠景

 

 現在の天主堂は1959(昭和34)年に再建されたもの。天主堂が建つ浦上の地は戦国時代末頃から「キリシタンの村」であった。長崎市中心部にある江戸町周辺は1571年に当時長崎の領主で日本初のキリシタン大名となった大村純忠によって町建てされた6町がイエズス会に寄進された。浦上教会が建つ浦上周辺の地も領主・有馬晴信によってイエズス会に寄進されている。1582年には大友宗麟と共に4少年をローマ教皇とスペイン・ポルトガル両国へ日本への宣教の支援を求め天正遣欧少年使節を派遣するほど熱心なキリシタン大名だった。

 

 大村純忠によって寄進された江戸町周辺はポルトガル人によって「岬の教会」が建てられ、教会堂を中心にイエズス会の管区長館や大神学校、コレジオ(大学)や印刷所などが併設。貿易だけでなくキリスト教布教の中心地となっていった。浦上もイエズス会に寄進されたことで数多くの教会が建てられている。

 


二十六聖人殉教の様子が描かれたレリーフが建つ西坂の丘

 

 1587年に豊臣秀吉がバテレン追放令を発布。1596年に禁教令を出したことから、京都で活動していたフランシスコ会とイエズス会の教徒たちを捕らえ、長崎まで連行し、磔(はりつけ)にして処刑した。日本で初のキリスト教信仰を理由とした宗教弾圧で「日本二十六聖人」として世界的にも知られている。

 

 江戸時代になると1612年に幕府直轄地に禁教令が出され、1614年には全国に拡大。長崎と京都にあった教会は破壊され、修道会士らが国外に追放された。1637年に島原の乱が勃発すると参加した農民がキリスト教を拠り所にしていたことが大きな衝撃を与え、禁教政策はより一層厳しいものとなる。長崎でも宣教師や信者らは捕らえられ厳しい拷問や処刑によって600人以上が殉教。世界的にも類を見ないほど徹底した禁教政策といわれている一方、長崎を中心に五島や外海などで密かに信仰を続ける隠れキリシタンも多く存在した。当時の浦上は村民のほぼ全てがキリシタンだったことから信徒組織が作られ、祭りなどに偽装して密かに祈りを捧げながら密かに信仰を貫いている。

 


「信徒発見」の舞台となった大浦天主堂

 

 幕末にフランス人が居住するようになるとフランス人のため1864年に大浦天主堂が建立。浦上の信者らが堂内で祈りを捧げていたプチジャン神父に近づき信仰を告白する「信徒発見」が起こる。大浦天主堂という精神的支柱を得た信者は幕府の厳しい迫害を避けるため4つの秘密教会を設け、大浦天主堂の巡回教会として神父を迎えて洗礼を受け、教理を学んだ。

 

 明治政府が樹立すると神道国家を掲げ、江戸幕府と同じくキリシタン弾圧を継続。浦上で3000人以上が20藩22カ所に流刑され厳しい拷問を受ける「浦上四番崩れ」が起こった1873(明治6)年に禁教令が解かれたことで信者は帰郷。250年にも及ぶ禁教と迫害の中でも信仰を守り貫き通した。

 

 禁教の時代が終わると「神の家」であり、魂のよりどころとなる天主堂の建立を熱望する浦上の信者らによって1880(明治13)年に旧庄屋屋敷が買い取られ仮聖堂となった。「高谷の丘の庄屋屋敷」と呼ばれるこの場所は7世代250年にわたって信仰の取り締まりを受けた場所であり、玄関前には信者らを縛りつけ拷問にかけた柿の木もあった。

 

 信者らは禁教の弾圧と流刑の打撃から生活の再建もままならなかったことから天主堂の建立は遅れ、1895(明治28)年にようやく赤レンガ造りのロマネスク様式の天主堂建設が始まった。資金難で工事は途絶えがちであったものの20年の歳月をかけ、1914(大正3)年に完成し、当時東洋一の大聖堂となった。

 

 1925(大正14)年、着工から30年の時を経て双塔が完成し、大小のフランス製アンゼラス(聖鐘)がつるされた現在の天主堂のモデルになった姿になった。

 


破壊された浦上天主堂(1946年1月7日撮影)

 

 1945(昭和20)年8月9日、原爆投下によって倒壊し、浦上小教区の信者1万2000人のうち8500人が亡くなっている。旧天主堂の小鐘があった左塔鐘楼は天主堂の北側を流れる小川に吹き飛ばされ、川の流れを塞いだことから川を北側に付け替え、土手に半分埋もれた姿で現在も被爆遺構として保存されている。右塔鐘楼は真下に倒壊したものの大鐘は奇跡的に無事だったことから再建された右塔で現在も鐘の音を響かせている。

 


被爆遺構として保存されている旧浦上天主堂の左塔鐘楼

 

 このほか旧天主堂は教会西側に一部残されているほか、爆心地公園(松山町)に南側の壁の一部が浦上天主堂遺壁として残されている。

 


爆心地公園に保存されている浦上天主堂遺壁

 

 映画「祈り」にも登場する被爆マリア像は旧天主堂の中央祭壇上部に安置されていた木製で高さ2メートルの「無原罪の聖母像」のこと。スペインから購入した像は水色の衣をまとい、両眼には青いガラス玉が付けられ、頭の周りを12の星が取り巻く美しい姿だったとされている。原爆で瓦礫となった天主堂から奇跡的に発見され、トラピスト修道院(北海道函館市)で保管されていたが、被爆30周年の年に返還されている。

 


被爆マリア

 

 現在は2005(平成17)年に被爆60周年記念事業として天主堂右側に整備された被爆マリア小聖堂で、原爆で亡くなった信者の名前が刻まれたプレートと共に安置されている。祭壇に描かれた「平和」の文字は原爆で根の部分が焼け残った庄屋の玄関前にあった柿の木の根が使われている。

 

 天主堂は被爆直後から天主堂遺構の保存に向けた声が上がっており、1949(昭和24)年には「長崎市原爆保存委員会」が発足。保存の是非を巡って議会が紛糾した映画「祈り」の舞台となった時期となる。その後、カトリック長崎の山口愛次郎司教が「天主堂は禁教時代に迫害を受けた庄屋屋敷跡である歴史的背景から移転は信仰上到底受け入れられない」と意思を決めたことから、1959(昭和34)年に旧天主堂をモデルとした鉄骨コンクリート造りの天主堂が落成。ローマ教皇の初来日を翌年に控えた1980(昭和55)年、有史以来の慶事を記念して旧天主堂と同じ赤レンガの外壁となり、すべての窓がステンドグラスになるなど再整備が行われ、現在の姿となっている。

 


旧浦上天主堂の左塔鐘楼から現天主堂を望む

 

 2019年11月、被爆マリア像を手に爆心地公園で献花・演説するフランシスコ・ローマ教皇を見守った浦上教会の久志利津男主任司祭は「被爆マリア像を手にすると驚くほど軽いことに驚かされる。平和の使者としてスペインやバチカンで展示されたこともあるが、古い木製であることから朽ちていきつつある」と言い、「劣化の程度を考えると今後はマリア像をどのように保存していくのか、専門家などの知恵を借りながら考えていく必要がある」と訴える。

 


2019年11月に来日したフランシスコ・ローマ教皇

 

 被爆75年の節目を迎える2020年。戦争を知る世代が少なくなっている今、映画「祈り」、そして被爆マリア像とともに戦争と原爆の悲惨さの記憶を後世に残し、事実を伝えていくことを今一度考えなくてはならない。

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